投稿主
1945年2月3日、日本軍がマニラでフィリピンの民間人を無差別虐殺して、わずか1ヶ月で10万人以上が犠牲になった。山下奉文大将はこの件の責任を問われて戦後に絞首刑になってる。

海外の反応
1. 海外の反応
Wikipediaの記事より:
https://en.wikipedia.org/wiki/Manila_massacre
『マニラに侵入したアメリカ軍は兵力約1000人、それに加えてフィリピン連邦軍と組織化されたゲリラの兵士が数千人いる。女性や子供までゲリラ化している。日本軍人・日本人居留民・特別建設隊を除き、戦場にいる者は全員殺害せよ』
――マニラ虐殺を正当化した日本側の命令書より
戦闘前、手持ちの兵力ではマニラを守り切れないと判断した山下奉文大将は、できるだけ多くの兵力をルソン島北部の山岳地帯シエラマドレに温存すべく、1945年1月にマニラからの全軍撤退を指示していた。ところが岩淵三次少将率いる海軍陸戦隊約1万人はこの命令を無視してマニラに居残った。
1945年2〜3月のマニラ市街戦で、アメリカ軍は日本軍を追い出すため市内に進撃。戦闘の合間、日本兵は苛立ちと怒りを市民にぶつけた。サン・フアン・デ・ディオス病院、サンタ・ロサ大学、サント・ドミンゴ教会、マニラ大聖堂、パコ教会、聖パウロ女子修道院、聖ヴィンセント・デ・ポール教会など、学校・病院・修道院で凄惨な暴行・強姦・虐殺が起きた。
アントニオ・ギスバート医師は父と兄がパラシオ・デル・ゴベルナドールで殺された経緯を語っている。『生存者は私を含めごくわずかだ。サンティアゴ要塞に押し込められた3000人以上のうち、2日後に虐殺を生き延びたのは50人もいない』
日本軍はフィリピン人の女性や子供を人間の盾として最前線に立たせた。生き残った者も後で殺された。
北部マニラのゲリラ掃討作戦では、子供を含む54,000人以上のフィリピン人が、通過する町ごとに処刑された。
妊娠中の女性は腹を切り裂かれて殺され、逃げようとした市民も処刑された。
ベイビュー・ホテルは『レイプセンター』に指定されていた。山下裁判での証言によれば、マニラの富裕層が住むエルミタ地区から400人の女性・少女が集められ、その中から『最も美しい』とされた25人が選別された。多くが12〜14歳だったこの少女たちはホテルに連行され、日本軍の兵士・将校が代わる代わる暴行した。
多くのドイツ人がドイツ人クラブに避難していたにもかかわらず、日本兵は乱入して助命を乞う母親の目の前で幼児や子供を銃剣で刺し殺し、避難していた女性たちを暴行した。ある少女は20人以上の日本兵に暴行された末、乳房を切り取られ、日本兵の一人がその乳房を自分の胸に当てて女性の真似をし、周りの兵士たちが笑っていたという。日本軍はその少女と、同じく暴行の末に死んだ女性2人にガソリンをかけて焼き殺した。
その後クラブごと放火し、多くの避難者が命を落とした。火から逃げようとした女性たちは捕まって暴行された。28歳のフリア・ロペスは乳房を切り取られ、暴行された上に髪に火をつけられた。別の女性は抵抗した末に半ば斬首され、暴行を受けた。
マニラ市街戦全体での民間人死者は約10万人とされ、その大半は日本軍による虐殺が原因だった。戦闘全体の民間人死亡率を高く見積もる研究者の中には、マニラ虐殺単体で10万〜50万人が死亡したとする説もある(他の死因を除く)。
山下奉文大将はマニラ虐殺の戦争犯罪で有罪となったが、実際に凶行に及んだのは岩淵少将の海軍陸戦隊であり、山下は事前に岩淵へマニラ撤退を命じていた。岩淵自身は敗北を悟り自決している。戦犯裁判の元検察官で著述家のアラン・ライアンは、山下が虐殺を行った、命じた、防げる立場にあった、あるいは事前に察知していたという証拠は一切ないと主張している。
ただしこの主張には問題がある。山下側弁護団は『マニラの虐殺は日本海軍単独の責任』という指揮系統上の技術論を使い、山下をマニラ以外で起きた数々の戦争犯罪からも免罪しようとした。連合国軍総司令部・民政局のコートニー・ホイットニー准将によれば、フィリピンではマニラ以外にも多数の戦争犯罪が起きている。米兵捕虜139人が殺されたパラワン虐殺、正当な手続きなしのゲリラ・兵士・市民の処刑(1944年12月のフィリピン軍ビセンテ・リム将軍処刑を含む)、バタンガス州での市民2万5000人の虐殺――これらはいずれも日本海軍ではなく陸軍の仕業だとされ、山下はフィリピンにおける組織的な拷問・殺害計画の責任を問われた。山下は日本陸軍の秘密憲兵組織『憲兵隊』を統括する立場にあり、捕虜が多すぎて正式な裁判ができないという憲兵隊の部下の求めに、無言でうなずいて処刑を認めていたとされる。フィリピン軍のリム、シメオン・デ・ヘスス、フィデル・セグンドの各将軍は、山下がマニラを去るずっと前に、山下の命令のもと裁判も手続きもなくマニラで他の数百人とともに斬首され、集団墓地に埋められた。これらの陸軍による虐殺に、海軍の岩淵少将は一切関与していない。山下側弁護団はこれら陸軍による虐殺について山下には一切責任がなく何も知らなかったと主張したが、認められなかった。
マッカーサー元帥、他5名の将軍、そしてアメリカ最高裁は、当時フィリピン全軍の指揮官だった山下に戦争犯罪の責任があると最終的に認定した。トルーマン大統領もこの判決を支持し、恩赦や減刑を行わなかった。山下は虐殺を発見・阻止しようとする努力を一切怠ったという理由で有罪となった。これがのちに『山下基準』と呼ばれるようになる。アメリカ軍法務官らが最高裁に上訴したが、5対2で棄却。山下は絞首刑を宣告され、1946年2月23日、マニラ南方の収容所で処刑された。反対票を投じた最高裁判事2人は、この裁判全体を『誤審』『報復行為』『人権の否定』と批判した。
Wikipediaの記事より:
https://en.wikipedia.org/wiki/Manila_massacre
『マニラに侵入したアメリカ軍は兵力約1000人、それに加えてフィリピン連邦軍と組織化されたゲリラの兵士が数千人いる。女性や子供までゲリラ化している。日本軍人・日本人居留民・特別建設隊を除き、戦場にいる者は全員殺害せよ』
――マニラ虐殺を正当化した日本側の命令書より
戦闘前、手持ちの兵力ではマニラを守り切れないと判断した山下奉文大将は、できるだけ多くの兵力をルソン島北部の山岳地帯シエラマドレに温存すべく、1945年1月にマニラからの全軍撤退を指示していた。ところが岩淵三次少将率いる海軍陸戦隊約1万人はこの命令を無視してマニラに居残った。
1945年2〜3月のマニラ市街戦で、アメリカ軍は日本軍を追い出すため市内に進撃。戦闘の合間、日本兵は苛立ちと怒りを市民にぶつけた。サン・フアン・デ・ディオス病院、サンタ・ロサ大学、サント・ドミンゴ教会、マニラ大聖堂、パコ教会、聖パウロ女子修道院、聖ヴィンセント・デ・ポール教会など、学校・病院・修道院で凄惨な暴行・強姦・虐殺が起きた。
アントニオ・ギスバート医師は父と兄がパラシオ・デル・ゴベルナドールで殺された経緯を語っている。『生存者は私を含めごくわずかだ。サンティアゴ要塞に押し込められた3000人以上のうち、2日後に虐殺を生き延びたのは50人もいない』
日本軍はフィリピン人の女性や子供を人間の盾として最前線に立たせた。生き残った者も後で殺された。
北部マニラのゲリラ掃討作戦では、子供を含む54,000人以上のフィリピン人が、通過する町ごとに処刑された。
妊娠中の女性は腹を切り裂かれて殺され、逃げようとした市民も処刑された。
ベイビュー・ホテルは『レイプセンター』に指定されていた。山下裁判での証言によれば、マニラの富裕層が住むエルミタ地区から400人の女性・少女が集められ、その中から『最も美しい』とされた25人が選別された。多くが12〜14歳だったこの少女たちはホテルに連行され、日本軍の兵士・将校が代わる代わる暴行した。
多くのドイツ人がドイツ人クラブに避難していたにもかかわらず、日本兵は乱入して助命を乞う母親の目の前で幼児や子供を銃剣で刺し殺し、避難していた女性たちを暴行した。ある少女は20人以上の日本兵に暴行された末、乳房を切り取られ、日本兵の一人がその乳房を自分の胸に当てて女性の真似をし、周りの兵士たちが笑っていたという。日本軍はその少女と、同じく暴行の末に死んだ女性2人にガソリンをかけて焼き殺した。
その後クラブごと放火し、多くの避難者が命を落とした。火から逃げようとした女性たちは捕まって暴行された。28歳のフリア・ロペスは乳房を切り取られ、暴行された上に髪に火をつけられた。別の女性は抵抗した末に半ば斬首され、暴行を受けた。
マニラ市街戦全体での民間人死者は約10万人とされ、その大半は日本軍による虐殺が原因だった。戦闘全体の民間人死亡率を高く見積もる研究者の中には、マニラ虐殺単体で10万〜50万人が死亡したとする説もある(他の死因を除く)。
山下奉文大将はマニラ虐殺の戦争犯罪で有罪となったが、実際に凶行に及んだのは岩淵少将の海軍陸戦隊であり、山下は事前に岩淵へマニラ撤退を命じていた。岩淵自身は敗北を悟り自決している。戦犯裁判の元検察官で著述家のアラン・ライアンは、山下が虐殺を行った、命じた、防げる立場にあった、あるいは事前に察知していたという証拠は一切ないと主張している。
ただしこの主張には問題がある。山下側弁護団は『マニラの虐殺は日本海軍単独の責任』という指揮系統上の技術論を使い、山下をマニラ以外で起きた数々の戦争犯罪からも免罪しようとした。連合国軍総司令部・民政局のコートニー・ホイットニー准将によれば、フィリピンではマニラ以外にも多数の戦争犯罪が起きている。米兵捕虜139人が殺されたパラワン虐殺、正当な手続きなしのゲリラ・兵士・市民の処刑(1944年12月のフィリピン軍ビセンテ・リム将軍処刑を含む)、バタンガス州での市民2万5000人の虐殺――これらはいずれも日本海軍ではなく陸軍の仕業だとされ、山下はフィリピンにおける組織的な拷問・殺害計画の責任を問われた。山下は日本陸軍の秘密憲兵組織『憲兵隊』を統括する立場にあり、捕虜が多すぎて正式な裁判ができないという憲兵隊の部下の求めに、無言でうなずいて処刑を認めていたとされる。フィリピン軍のリム、シメオン・デ・ヘスス、フィデル・セグンドの各将軍は、山下がマニラを去るずっと前に、山下の命令のもと裁判も手続きもなくマニラで他の数百人とともに斬首され、集団墓地に埋められた。これらの陸軍による虐殺に、海軍の岩淵少将は一切関与していない。山下側弁護団はこれら陸軍による虐殺について山下には一切責任がなく何も知らなかったと主張したが、認められなかった。
マッカーサー元帥、他5名の将軍、そしてアメリカ最高裁は、当時フィリピン全軍の指揮官だった山下に戦争犯罪の責任があると最終的に認定した。トルーマン大統領もこの判決を支持し、恩赦や減刑を行わなかった。山下は虐殺を発見・阻止しようとする努力を一切怠ったという理由で有罪となった。これがのちに『山下基準』と呼ばれるようになる。アメリカ軍法務官らが最高裁に上訴したが、5対2で棄却。山下は絞首刑を宣告され、1946年2月23日、マニラ南方の収容所で処刑された。反対票を投じた最高裁判事2人は、この裁判全体を『誤審』『報復行為』『人権の否定』と批判した。
→2. 海外の反応
うわ…レイプして乳房を切り取ってから殺すってくだり、マレー人女性に対してやってたのとまったく同じだ。80年代か90年代の新聞記事で読んだ気がする。デジタル化されてるかどうか、見つけられるか分からないけど。
うわ…レイプして乳房を切り取ってから殺すってくだり、マレー人女性に対してやってたのとまったく同じだ。80年代か90年代の新聞記事で読んだ気がする。デジタル化されてるかどうか、見つけられるか分からないけど。
→3. 海外の反応
今の時代、都合よく堂々と無視されてる基準だよな。
追記:このコメントに低評価つけてる人へ。この基準がこの裁判以降もちゃんと一貫して適用されてたら、一体どれだけの戦犯が裁かれてたと思ってるんだ?
今の時代、都合よく堂々と無視されてる基準だよな。
追記:このコメントに低評価つけてる人へ。この基準がこの裁判以降もちゃんと一貫して適用されてたら、一体どれだけの戦犯が裁かれてたと思ってるんだ?
4. 海外の反応
日本って歴史的に見るとマジで鬼畜だったのに、広報がうますぎて全部うまいことホワイトウォッシュしちゃったのがヤバい。今じゃ日本って言ったらみんなアニメしか思い浮かばないし。
日本って歴史的に見るとマジで鬼畜だったのに、広報がうますぎて全部うまいことホワイトウォッシュしちゃったのがヤバい。今じゃ日本って言ったらみんなアニメしか思い浮かばないし。
→5. 海外の反応
俺はフィリピン人の40歳だけど、子供の頃に見た『日本』の代表的なイメージは、放り投げた赤ん坊めがけて三八式歩兵銃の銃剣を突き刺す日本兵の姿だった。
俺はフィリピン人の40歳だけど、子供の頃に見た『日本』の代表的なイメージは、放り投げた赤ん坊めがけて三八式歩兵銃の銃剣を突き刺す日本兵の姿だった。
→6. 海外の反応
実際は日本側の努力じゃなくて、アメリカが庇ってやったんだよ。ナチスが人道に対する罪で裁かれたのとは対照的にな。
東ドイツみたいにソ連の影響が日本に及ぶのを防ぐためにやったことだ。
実際は日本側の努力じゃなくて、アメリカが庇ってやったんだよ。ナチスが人道に対する罪で裁かれたのとは対照的にな。
東ドイツみたいにソ連の影響が日本に及ぶのを防ぐためにやったことだ。
→7. 海外の反応
アメリカとその国際法廷が戦後処刑した日本人戦犯は約140〜150人、連合国全体では合計およそ900〜1000人だ。
こっちは日本のほとんどを焼け野原にしたんだぞ。それとも大量虐殺でもしてほしかったのか?第三世界の属国にでもすればよかったってのか?具体的に他にどうしろって言うんだ?
アメリカとその国際法廷が戦後処刑した日本人戦犯は約140〜150人、連合国全体では合計およそ900〜1000人だ。
こっちは日本のほとんどを焼け野原にしたんだぞ。それとも大量虐殺でもしてほしかったのか?第三世界の属国にでもすればよかったってのか?具体的に他にどうしろって言うんだ?
→8. 海外の反応
アメリカの処刑数が少ないのはマッカーサーのせいだよ。戦後、日本人に屈辱を感じさせず、むしろ敬意を払われてる感じにしたかったんだと。
まあ当然っちゃ当然で、こいつは前線に一度も行かず日本人のことを表面的にしか理解してない大バカ野郎だったからな。戦争中はほとんど穴蔵に隠れてた(あだ名は『穴蔵ダグ』)。自分より人気のある陸軍将軍を降格させるとまで脅した。あと降伏式典で英軍・インド軍が日本軍将校から軍刀を没収するのを『屈辱的だから』って禁止させた。
さらに降伏文書に調印する船を日本に入れたいがために、降伏前の攻勢まで禁止した。マラヤの捕虜収容所で連合軍捕虜が餓死しかけてたことなんかお構いなしにな。
マウントバッテンとスリムは『知るか』とばかりに従わず、パラシュート部隊を送って捕虜に食料を届けさせ、自分の管轄地域の日本軍将校には記録付きの降伏式典で軍刀を差し出させた。ルーズベルトがマッカーサーの退役・副大統領選出馬を恐れたせいで出世した、ろくでもない臆病者の権威なんて誰も認めるつもりはなかったんだよ。しかもこいつは数週間だけ最高司令官に昇進して、アメリカが気持ちよくなるためだけに降伏を受け取った立場だ。極東地域を指揮したのが英軍将校だったのは、アイゼンハワーを欧州の指揮官にする取引の一部だったことも忘れちゃいけない。
マッカーサーは日本を甘やかして扱った。それが今の状況につながってる。
処刑されるべきだった将校は他にもいた。だからこそ英軍なんかは戦犯を大勢絞首刑にしてる。日本を統治してたアメリカが処刑したのがたった140〜150人?それ自体がアメリカへの糾弾だよ。
例を挙げると、アメリカ人航空兵の肝臓を料理して食べた日本の諜報部長がいた。
こいつは戦後1〜2年身を隠したあと日本に戻って国会議員に立候補し、何期も務めた。しかもそのことについてベストセラー本まで書いてる。他にも何百人もの連合軍捕虜を殺したり拷問したりした将校たちを、アメリカは肩をすくめてスルーしただけだった。
アメリカの処刑数が少ないのはマッカーサーのせいだよ。戦後、日本人に屈辱を感じさせず、むしろ敬意を払われてる感じにしたかったんだと。
まあ当然っちゃ当然で、こいつは前線に一度も行かず日本人のことを表面的にしか理解してない大バカ野郎だったからな。戦争中はほとんど穴蔵に隠れてた(あだ名は『穴蔵ダグ』)。自分より人気のある陸軍将軍を降格させるとまで脅した。あと降伏式典で英軍・インド軍が日本軍将校から軍刀を没収するのを『屈辱的だから』って禁止させた。
さらに降伏文書に調印する船を日本に入れたいがために、降伏前の攻勢まで禁止した。マラヤの捕虜収容所で連合軍捕虜が餓死しかけてたことなんかお構いなしにな。
マウントバッテンとスリムは『知るか』とばかりに従わず、パラシュート部隊を送って捕虜に食料を届けさせ、自分の管轄地域の日本軍将校には記録付きの降伏式典で軍刀を差し出させた。ルーズベルトがマッカーサーの退役・副大統領選出馬を恐れたせいで出世した、ろくでもない臆病者の権威なんて誰も認めるつもりはなかったんだよ。しかもこいつは数週間だけ最高司令官に昇進して、アメリカが気持ちよくなるためだけに降伏を受け取った立場だ。極東地域を指揮したのが英軍将校だったのは、アイゼンハワーを欧州の指揮官にする取引の一部だったことも忘れちゃいけない。
マッカーサーは日本を甘やかして扱った。それが今の状況につながってる。
処刑されるべきだった将校は他にもいた。だからこそ英軍なんかは戦犯を大勢絞首刑にしてる。日本を統治してたアメリカが処刑したのがたった140〜150人?それ自体がアメリカへの糾弾だよ。
例を挙げると、アメリカ人航空兵の肝臓を料理して食べた日本の諜報部長がいた。
こいつは戦後1〜2年身を隠したあと日本に戻って国会議員に立候補し、何期も務めた。しかもそのことについてベストセラー本まで書いてる。他にも何百人もの連合軍捕虜を殺したり拷問したりした将校たちを、アメリカは肩をすくめてスルーしただけだった。
引用元
コメント
コメントを読み込み中…
